急逝で「神様」に祭りあげられたジャイアント馬場”裸の実像”を剥ぐ

1月31日、あまりにも衝撃的な死を迎えたジャイアント馬場が、プロレスの神様になったのだ、という。

いくらプロレスがギミック(はったり)だらけの世界とはいえ、さすがに「神様」は、これまで存在しなかった。それが、結腸ガンによる肝不全で死去するや否や、ジャイアント馬場は「プロレスの神様」に奉られてしまったのだ。

馬場の逝去報道は、プロレスマスコミだけでなく、週刊誌をはじめとする一般マスコミまでもが馬場を「馬場さん」と親しみを込めて呼び、神格化したエピソードを、書き連ねた。まさに「神様」ヘの祝詞のごとく、であった。

「生涯現役で中高年の星だった馬場さんは、温和で人柄もよく、所属レスラーとファンを何より大切にしてきた誰からも愛されるキャラクター。趣味は読書と絵を描くこと。友人の逸見政孝がガンで闘病中の時は大好きな葵巻を断ち願掛けする友人思い。愛妻の元子夫人とは類い希なおしどり夫婦で…」という具合に、延々と素晴らしいエピソードを書き連ねた。

そして最後は例によって「馬場さん、感動をありがとう」でしめる。まるで、日本列島全体が悲しみに暮れたかのような報道ぷり。馬場より素晴らしいレスラーは他にはいなかったのか、と思えるほどだ。しかも、あの鈍牛・小渕恵三首相までも「人柄もユーモアもあって、微笑ましかった。一番、大きなことは私と同じ61歳ということだ」とコメントを出し、この調子ならプロレス界初の国民栄誉賞まで授与されそうな勢いである。

いや、これらのエピソードが事実ならそれでいい。、シャイアント馬場がプロレス界に残した功績は、その巨体同様、確かに大きいのは事実だからだ。

ところが、である。
「とんでもない。死んで万々歳ですよ。もっと早く死んでほしかったぐらいだ」 と、馬場の死を大歓迎する人物もいるのだ。それは不仲が噂されたアントニオ猪木や新日本プロレスではない。驚くなかれ、この発言をしたのは、馬場がレスラーとして活躍し、社長を務めていた全日本プロレスの関係者達なのである。

「ウチだけでなく、中継局の日本テレビだって、他団体のレスラーや関係者の多くが歓迎しています。これほど死んだことを歓迎されるレスラーも少ないだろうね」(全日本プロレス関係者)

身内であるはずの全日本プロレス周辺から、こんな声が聞こえるとは思いも寄らぬことではないか。いったい、美談報道の陰で馬場の周囲に何があったというのか。
「美談報道自体が、ジャイアント馬場の”真実”を覆い隠すために”提造”したストーリ−といっていい」
そう関係者は続ける。たれ流された美談報道に比べ、あまりにもジャイアント馬場の実像は違うのだという。

▼馬場の知られざる素顔

「馬場は素晴らしい経営者であり、レスラーであったというエピソード自体、とんでもない嘘ですよ」
ある日本テレビ関係者がこう説明する。
「数年前から、全日本のレスラーは馬場に対する忠誠心などかけらもなく、疎んじ始めていた。馬場が病気をせずに、あのまま元気だったら、間違いなくグーデターが起きて、全日から追い出されていたはず。運良く、入院したことで難を逃れただけ。現に三沢が動きはじめてましたからね」

驚くことに首謀者は、次期社長の三沢光晴。三沢の動きに対して、四天王といわれる、川田利明、田上明、小橋健太といった主だった人気レスラーが追従する動きを見ぜていたという。

美談報道では、馬場は病気をしたため三沢に現場の指揮権を与えたと伝えられていた。
「事実は、入院直前、三沢は『社長が引退しない限り、自分が辞める』と迫り、事実上、馬場から経営権を奪ったのです。この時は、馬場も体調が悪化していたため、三沢に任せざるをえなかった」(前出・日本テレビ関係者)

三沢がクーデターを思い立ったのは、馬場に任せておけば、全日がやがて倒れるという危機感からだろう。日本テレビは馬場の死後、すぐさま、現在の放送時間である30分枠を45分に増やすことを決めている。日本テレビも馬場に愛想を尽かし、三沢歓迎ムードであったことがわかる情報といえる。実際、三沢の判断は正しかった。なにしろ、馬場の死後、長年の犬猿関係にあった新日本プロレスとの交流戦まで、一挙に実現しそうな勢いなのだ。 しかも馬場に対するクーデターは、今回が初めてではなかったのだ。

「実は85年、ジャンポ鶴田が日テレから出向して来た、当時の社長の松根光雄と組んで一度クーデターを起こそうとしたことがあった。この時は未遂に終わったが、今度は90年、やはり工−スの天龍源一郎がメガネスーパーが出資したSWSを旗揚げするために、退団したのも、馬場への不満からだった。いわば全日は、常に工−スが造反してきた歴史があるわけで、いかに馬場が選手から敬遠されてきたかがわかる」(前出・全日本プロレス間係者)

馬場を嫌っていたのは選手だけではない。前述したように中継局である日本テレビまでが馬場に見切りをつけていた。力道山時代から馬場との関係が良好だったはずの日本テレピが馬場に見切りをつけたのは、去年9月に開催した全日本プロレス初の東京ドーム大会に至るまでの経緯からだったという。実はこのドーム大会、K−1をフジテレビから奪った日本テレビが、この際、全日本プロレスも売り出そうと計画したためのものなのだという。

「日本テレピによる資金提供、ゴールデンタイムの中継など全面的な協力体制が敷かれ、日本テレビの強い要請のもと、ドーム用のマッチメイクとして日テレの要請で三沢が動き、天龍や大仁田厚、冬木弘道など全日本出身の人気レスラーをかき集めたんです。ところが馬場は、『一度、ウチから出て行った、裏切った人間は出さない』と固辞。怒った日テレは『だったらゴールデンは出せない』というと馬場は『それでもいい』と。やる気をなくした日テレは宣伝もせず、どうにか、馬場派のプロレスマスコミの煽りでドームの動員はそこそこといった結果に。このまま、好き嫌いでマッチメイグを決めてしまう馬場に任せておけば全日はいずれ潰れると、日テレも、馬場外しを了承したのです」(前出・日本テレピ関係者)

実際、全日は3年前から、地方興行が不振続きで経営が悪化。ドーム大会は、再興への起爆剤になるはずと、会社、選手、日テレの期待も大きかっただけに、馬場に対する絶望感もこの一件でより増したというのだ。

▼巧妙だったマスコミ処世術

あるOBレスラーは、馬場は本気で選手を売り出したり、団体を大きくしようと思っていたのか疑問だったと、こう説明する。

「自分より人気が出ると、絶対に許さないんだ。アメリカで人気が出たザ・グレート・カブキが凱旋帰国したときも、一般紙が取材したいといってもダメ。テレビ局がカブキのアニメを作り、『タイガーマスク』のような大々的なブームを打ち出そうと計画したものの、結局、馬場の許可がおりず、却下。横網からプロレス入りした輪島のときには、最初は一緒に海外にトレーニングをしに行ったりと指導するそぶりを見せていたのだが、人気が出るや、一変して『輪島は練習をしない』とプロレスの実況中継の解説で叩きまくり、結局追い出してしまった。ジャンポ鶴田でさえ、次期社長候補と目されながら、権限委譲はしなかった。このため鶴田はクーデターを起こしたものの失敗に終わり、全盛期を過ぎ、肝炎を患って、もはや試合もできない体になってしまった」

確かに全日の選手では、つい最近までテレビ出演できるのは馬場だけだった。馬場は、昭和40年代から、プロレス界のエ−スだっただけに、必然的にマスコミ操縦術に長けていた。例えば、馬場は知らない記者がいるだけで記者会見を打ち切るなど徹底的にマスコミを規制してきた。都合の悪いことを書けば、取材拒否、逆に仲のいいマスコミには、一流ホテルでメシや酒をいくらでも振る舞い、家に招待する。アメとムチを便うのが馬場流の管理法だった。

「こうしてマスコミを支配するのは、自分より人気が出て、自分の地位を脅かさせないため。そのいい例が、90年の天龍離脱事件だろう」(OBレスラー)

メガネスーパーが新設した新団体に天龍が参加するや、馬場は、小判鮫のようにまとわりついていた、週刊プロレスのターザン山本を使って、「あそこは金権プロレス」「天龍は義理も人情もない」と、徹底的に叩きまくり、団体ごと潰してしまった。

「あの事件後、プロレスに金を出そうという大企業はなくなってしまった。プロレス全体を考えれば、金を出してくれるスポンサー企業は他団体といえども貴重な存在だ。馬場のした行為の罪は重いし、あまりにも自己中心的だといわざるをえない」(プロレス評論家) アメどムチを使った管理は、マスコミだけでなく、選手の管理にも利用されている。馬場神話によれば「馬場さんほど選手の待遇や金銭面をキチンとしている社長はいない。一度も給料を遅配にしたことがなく、また選手に優先的に支払い、自分の給料がないこともあった」と報道され続けている。

だが実態は必ずしもそうではないという。「確かに給料の遅配はなかったが元々が安い。三沢クラスで年収4000万円。数字だけ見れば、多く貰っているように思えますが、地方巡業などで年間200近く試合をやる。特に全日の試合はハードで鳴らしているのに、1年契約で将来もケガの保証もない。一方、新日は社員選手制なので、ケガをすれば労災もおりるし、保険も使える。若手クラスでも月収80万円。工−スクラスは1億円を越えているというのに」(前出・OBレスラ−)

単年度契約にするのも、自分に対する批判を押さえ込むため。馬場は人望というより、”恐怖政治”によって支配していたに過ぎず、自分の人気を守るためなら何でもする、それが馬場の素顔だったのである。

「ジャイアント馬場の「ババ』は、ババ抜きのババ」(前出・全日本プロレス関係者)
馬場の死によって、ようやくババが外れたと喜んでいるのがむしろ実態なのだ。

▼馬場夫人とグッズ販売会社

「いや、ババはまだ一枚、残っている。馬場元子。馬場の奥さんですよ」(前出・全日本プロレス関係者)

元子夫人といえば、今回の馬場報道でも、ワイドショーをはじめとするマスコミに度々登場。プロレス界きってのおしどり夫婦ぶりがしきりに喧伝された。

また「全日の母」の異名をとり、遠征には必ず同行、移動バスにも乗り込み、若手の面倒見もいい。いわば、名実共に馬場の片腕として絶妙の”タッグパートナー”だった。

確かに、ここまでの話なら、彼女は全日本プロレスの役員でもないし、単なる熱心な社長夫人と受け止められなくもない。実際、報道の多くもそう伝え、美談にしてきた。 ところが、である。この元子夫人こそが、馬場の全日本プロレス私物化を押し進めた張本人というのだ。

実は元子夫人の肩書は、ジャイアント・サービス社長。全日本プロレスのグッズ製作、販売を管理する会社である。

「このジャイアント・サービスは、馬場の財布替わりに設立した会社といってもいい。馬場が全日で常に強権をふるえたのも、このジャイアント・サービスがあったから」(前出。全日本プロレス関係者)

ことあるごとに生前の馬場は興行の苦労話として、興行成績が悪ければ、自分の資産とポケットマネーでペイしてきたと公言してきた。だからこそ馬場は倖いと美談になってきた。また視聴率のとれる外国人レスラーに対して高価なプレゼントをし、公私にわたって面倒を見ることで抜群のブロモート能力も誇ってきた。馬場は、そうした金を全て自分のポケットマネーで賄うことで、日本テレビにも思を売ってきたわけだ。

ところが、その資金源こそが、ジャイアント・サービスだったのである。
「どこの団体もグッズの収入は、重要な資金源。それを馬場は個人の懐に入れたわけです。給料なんて貫わなくてゼロでも平気だったのはそういう理由」(前出・全日本プロレス関係者)

さらに馬場はキャピトル束急のスイートに常泊してきた。前出のプロレス評論家は、馬場夫妻の金の使いっぷりをこう説明する。
「馬場夫妻だけで、ホテルの売上げの数バーセントを担っていたといわれていましたよ。馬場が気に入った記者たちに、一回10万円単位でしょっちゆう御馳走してましたしね」

馬場のトレードマークに葉巻がある。逸見政孝が闘病中、願掛けのため禁煙したという美談の象徴だ。この葉巻だって、1本1万円近くする高級品。それを日に8本程度吸っていたという。単純に計算すれば、月240万円。年3000万円、10年で3億円になる。本来、レスラー達に還元されるぺき金を、自分の嗜好品のために使っていたという象徴的事例であろう。これをみると、馬場はいつでも、どんな会場でも売り場にいて、グッズを買ってくれたファンにサインのサーピスをするという素晴らしいエピソードも、単に自分の儲けにつながるからじゃないか、との声があっても当然だろう。しかも、その財布を管理していたのが元子夫人なのだ。

マスコミの報道ではこの夫婦の恋愛のエピソードは欠かせないようだが、それでも、解せないのが、極秘結婚の理由である。元子夫人と馬場の出会いは1955年。71年に極秘結婚していたものの、入籍して公にしたのが82年。74年に元子夫人にジャイアント・サービスの経営を任ぜてから8年後のことだ。この間、馬場が元子の存在をひた隠しにしてきたのは、「ジャイアント・サービスを詮索されたくなかったから」(専門誌編集者)といわれていたものである。

だが、マスコミに公に報道されて以降、表舞台に立った元子夫人は、試合中、居眠りしていた客を追い出すなど、次第に団体運営に口をはさむようになった。
「去年三沢の試合をポニー・キャニオンがビデオ化して売ったんですよ。当然、キャニオンの方が三沢にギャラ(著作権料)を支払おうとした。ところが、途中で元子が出てきて、ジャケット写真はどうだとか、内容にまで口を出してきた。その挙げ句、ギャラはジャイアント・サービスに払えという。キャニオンの方は、そこから三沢にいくのだろうと思ったら、後で聞くと三沢は一銭も貰っていなかった。三沢も『いつものこと』と苦笑いしていた」(ビデオ制作会社スタッフ)

こうして、テレビ出演、取材謝礼や講演料などを”詐取”してきたのである。
元子があれだけ全日本に入れ揚げてきたのは、馬場のためではなかった。馬場夫妻には子供がいない。だからこそ元子夫人は、夫が作った会社を自分の子供のように思って、過保護にし、管理したがった。馬場もまた、そういう元子に、好きにやらせた。そのせいで馬場と同様ご元子夫人に気に入られたレスラ−は出世が早かった。いわば全日本プロレスとは、馬場が妻に与えた子供代わりだったともいえます」(前出・プロレス評論家)

馬場がここまで元子に気をつかった理由。その理由こそが、馬場という人物を語る上で避けては通れない重要なファクターなのだ。

本誌はここまで、等身大の馬場の実像を検証してきた。そこから浮かび上がった馬場の姿とは、他人に嫉妬し、恨みがましく、好き嫌いで物事を決める感情的な人物像であった。 あえて差別的にいえば、女々しいのだ。そう、プロレスラー、ジャイアント馬場からは想像もできないような、まるで女性のような性格こそ、馬場の、また一面の姿だといっていい。

そこで想い出されるのは、プロレス界で、延々と噂されてきた一つの流言のことである。
「馬場は限りなくホモに近いバイセクシャルだった」
この噂が俄に信恩性を帯びてくるのだ。

▼馬場の女々しさの背景

何度か本誌でも取り上げたが、もう一度、プロレス界での噂を整理してみよう。
まず、一般論として、プロレス界にホモが多い理由は三つある。鍛えられた肉体を有するということは、ホモやナルシストになりやすい。また常に裸と裸のぶつかりあいという環境にあること。そして三つ目が日本のプロレス界の父目力道山にその趣味があったからだといわれる。

実際、馬場が目覚めたのも力道山の手ほどきだと噂されていた。あれだけ感情的にすぐに弟子を殴る力遺山が一度も馬場に手を上げなかったのは、”愛情”のせいだったというものだ。

馬場が全日本プロレスを立ち上げ、苦境に立ったとき、助力したのが大物レスラーのブルーノ・サンマルチノ。彼こそは、馬場のアメリカ修業時代、遠征先で常に一緒のホテルに泊まるほど仲がよく、アメリカ時代の恋人ではないか、といわれたものだ。

全日時代では、馬場が「養子にしたい」とまでいった大仁田厚。大仁田は、インタビュ−で「馬場さんを男として愛している。何でもできた」と答えているし、天龍も可愛がった口だという。天龍が全日本プロレスを離脱したのは、馬場の愛情が三沢に移ったからだというプロレス界情報通の見方もある。

もちろん、いずれも噂のレベルである。噂ではあるが、馬場が選手やマスコミの人間を好き嫌いで判断していたのは確かであり、これまた女性のように細やかな神経を持っていたのも事実なのだ。

「実際、馬場に女装癖があったのは間違いないでしょう。下関のホテルでボヤ騒ぎがあったとき馬場がネグリジェ姿で出てきた話は有名ですし、合成でしたが加山雄三との絡み写真が出回ったのも、火のないところに…ってヤツでしょう」(プロレス記者)

また新宿2丁目のゲイが解説する。
「大腸系のガンは、ホモのネコ役に多いの。出し入れが激しいために化膿してね。ネコって、基本的にデカくて、強い男が好きで、そういう男にイジメられると快感なのよ。だから馬場も還暦になってもリングにあがっていたのかもね(笑)」

これは、あくまでもゲイの酒場話にすぎない。しかし元子夫人との関係を見るかぎり、後継者が必要なはずの馬場に子供が出来なかった事、元子が夫のことを何年経っても「馬場さん」と呼び続けた事、いずれも二人が普通の夫婦とは違った感覚のユニークな夫婦だったといっていいだろう。

まるで馬場は元子夫人に”贖罪”するかのように、自分が創り出した全日本プロレスを子供代わりとして与えたといえるのではないか―。

しかしながら真実は、特注の白い棺桶とともに灰となり、永遠の謎となった。だが、馬場がどんなに女々しい性格で、たとえバイセクシャルであろうと、馬場が日本プロレス、いや日本スポーツ界に残した功績の輝きを失うわけではないだろう。にもかかわらず、マスコミはただ商売につなげようと、あたかも馬場が完全なる人間のように取り上げ、結局は神様のように奉ってしまった。

しかし、本当のジャイアント馬場は、女々しいからこその馬場だったとの証言も数限りないのだ。しかも実は、馬場の足は16文ではない。正確には14文である。つまり、馬場の不幸は、常に等身大の自分を見てもらえなかったことにあるのではないか。ジャイアント馬場は断じて神様ではない。ただコンブレックスと誇りをないまぜにした肉体を持つ人間味のあるプロレスラーだった。

だからこそ、ギミックに満ちたジャイアント馬場ではなく、巨人症というコンプレックスを抱き、昭和の一時代に築き上げられた虚像に悩む一人の馬場正平の姿を、マスコミは報道すべきであったのだ。相も変わらぬ死者に対する美談仕立ての報道、そして還暦を過ぎてもリングに上がり統けたショーマン根性のジャイアント馬場に対して合掌。〈敬称略〉