浅香光代の怒りで過熱報道となった野村沙知代の隠された経歴を追跡!

▼野村沙知代をめぐる熱き熱女バトル

「ふざけるんじゃないよ。いったい何様のつもりだってえの」
剣劇女優の浅香光代が威勢よく淡呵を切って始まった野村沙知代との大喧嘩がエスカレートの一途をたどったのは周知の通り。

浅香の発言を受けた沙知代が講演会で「どうせ売名行為でしょ」「金持ち喧嘩せずよ」とヤリ返したことが火に油を注ぎ、浅香は夫の世志几太までかつぎ出して反撃。これに渡部絵美、美輸明宏、さらにはテレピ香組で何度も共演しているデピ夫人や、落合博満夫人の信子までが一斉にバトルに参戦し、沙知代バッシングを始めたのだ。

一方のサッチー側も、沙知代の友人である関西料理界のドン・神田川俊郎や、芸能界や財界に多数の信奉者を持つ占い師・細木数子らが乗り出し沙知代擁護を展開。ワイドショ−や女性週刊誌はこのバトルを連日トッブで扱い、エンドレスの様相さえみせている。

もっとも、いかに話題を集めているとはいえ、これだけならぱ、芸能界ではよくあるタレント同士の喧嘩に過ぎない。ところが今回の騒動では、野村沙知代の信じ難き過去が次々と噴出しているのである。

「ワガママとか、礼儀知らずといったレベルだけじゃなく、経歴詐称や詐欺疑惑だからね。代議士になろうとした人間としては大いに間題だろう」(週刊誌芸能記者)

沙知代の傍若無人な”女帝人生”については96年、すでに本誌が一度報じているのだが、なるほど、確かに現在の野村沙知代は、単なるいちタレントにとどまらない、強い発言力を持つ立場にある。

周知の通り沙知代は96年の衆院選に小沢一郎にかつぎあげられて当時の新進党から出馬したものの次点で落選している。ところが今年2月、柿澤弘治元外相が都知事選に出馬表明し、その柿澤の空席に東祥三が出馬表明するという”玉突き現象”で、沙知代が繰り上げ当選する可能性が生まれてしまったのである。

結局、小沢が自民党とのバーター取引に応じ、東祥三が出馬を取りやめたため、沙知代の繰り上げ当選も消滅してしまったのだが、一歩間違えれば野村沙知代”代議士”が誕生していた可能性も十分あったのである。そもそも浅香が沙知代批判を口にしたのは、この「野村沙知代、衆院議員繰り上げ当選しの可能性が高まったことが発端。浅香は「あんな人が代議士になったら私は許さないよ。完全な税金の無駄遣いしとして沙知代批判を始めたのだ。ところが、いわば公人であるはずの野村沙知代は前述の講演会での「金持ち喧嘩ぜず」発言に統いて『フォーカス』の取材に「読売の陰謀だ」などと答え、話をはぐらかすばかり。疑惑そのものについては完全にダンマリを決め込みマスコミの取材からも逃げ回っている。

これまで事あるごとに言いたい放題だった沙知代の言動から見れば、今回の沈黙はおよそ考えられない対応なのである。「サッチーが今回の一件で沈黙しているのは、論争が拡大して自分の過去にスポットが当たっているからだよ。サッチーは以前から自分の過去に触れられる事を極端に嫌がってたからね」(前出・週刊誌芸能記者) いったい野村沙知代は、何を恐れて逃げ回っているのか。その答えは虚飾に満ちた沙知代の過去の中にある。

▼嘘で固めた過去の経歴

改めて説明するまでもないだろうが、野村沙知代といえば、今期、阪神監督に就任した名将・野村克也の妻にして、CM、バラエティ番組はもちろん、各地での講演会にも引っ張りだこの売れっこタレント。その歯に衣着せぬ言動と、一流プランドや高価な宝石で身を固めたインパクトあるルックスで、「サッチー」の愛称とともに、瞬く間にバラエティ番組を中心に人気を獲得した人物である。

ところが、選挙に出馬したこともある人物であるにもかかわらず、その経歴に関していえば、あまりにも不透明な部分が多いのだ。なにしろ選挙の際に公表された野村沙知代のブロフィルはこうである。『1932年3月26日東京生まれ。米国から帰国後の1972年、野村克也と再婚』

驚くべきことに、野村克也と結婚するまでの40年間がすべて空白となっているのだ。
「選挙に出馬する以前には、もう少し詳しい経歴を公表してたはずです。例えぱ著書に書かれていたブロフィールを見ると『米・コロンビア大精神心理学部卒業』と明記してあったし、雑誌のインタビューや周囲の人間にもそう公言していた。ところが調べてみるとこの学歴ほ、真っ赤な嚇だったんです」(前出・週刊誌芸能記者)

ところが学歴詐称を指摘された沙知代は「コロンビア大卒ではなくコロラド大留学で、間違えたのは編巣部のミスだ」と、さらなる学歴詐称で恥の上塗りをする始末。

しかも、沙知代の経歴の樫造は学歴ばかりでなく出生地、家柄、人脈、呆ては野村克也との結婚年月日にまで及んでいるのだ。とにかく、沙知代は執勘なまでに自分の過去にこだわり、見栄と嘘で塗り面めてきたのだ。では、沙知代がここまであからさまな嚇をついてまで隠そうとする、本当の経歴とはいったいどのようなものなのか。実をいうと本誌は今回、沙知代の実弟から話を聞くことができた。

野村沙知代のもともとの名前は『伊東芳枝』。32年、現在の福島県自河市に生まれ、一年後に東京都荒川区に転居。父親は都バスの運転手をしていたという。現在の小学校にあたる第二瑞光国民学校を卒業後、再び福島県に戻り白河市の電電公社に交換手として就職。ところがこの勤めは長くは続かず、20歳を待たずして家出してしまう−−。

家出後の沙知代はまったくの音信不通になってしまうのだが、数年後、ようやく手紙が来て家族と連絡がついたという。

「芳枝からの手紙には東京に遊ぴに来いと書いてあったんで、私と二番目の姉が上京したんです。芳枝が指定した場所は新橋にある第ーホテルでした」

こう話すのはその沙知代の実弟、伊東信義である。当時、東京の主要ホテルはほとんどがGHQ(連合軍総司令部)に接収され、米軍の将校たちの宿舎となっていた。第一ホテルも同様で、ホテル周辺にはGIたちが歩き回り、外国人相手に商売をする日本人たちであふれていたという。

「ホテルの通用口から出てきた芳枝を見て驚きましたよ。久しぶりに会ったら、派手な洋服を着てすっかりアカ抜けてたし、あの時代に化粧にマニキュアまでしてた。しかもいつの間にか英語まで話せるようになってたんだからね」

沙知代は第一ホテルの厨房で皿洗いの仕事をやっていると語り、信義たちのリュックにチョコレートやコーラを詰め込んでくれたという。当時の日本人にとってはめったに手に入らない食べ物ばかりである。

こうして沙知代から手紙が届くと、上京して会いに行くというパターンが何度も繰り返されたのだが、時には沙知代がGIに肩を抱かれて通りを歩いている姿を見ることもあったという。

いったい、家出娘だった沙知代はこの街で、何をして暮らしていたのか。 実は、この空白となっている東京での生活こそ、まさに野村沙知代が自分の過去から消し去ろうとしていた時代なのである。沙知代の実弟は、本誌の質問にはっきりこう答えてくれた。

「芳枝がやってたのは、当時『バンパン』って呼ばれてた職業だ。皿洗いのアルバイトをしながら、ホテルの回りにいる米兵相手に商売してたんだ」

野村沙知代は、まさに体ひとつで戦後の東京を生き抜いてきたというのだ。しかも、この生活は5年近くも続いたというのである。

「芳枝は男と一緒に都内のアバートを転々としてたようで、住まいが定まらなかったため、芳枝が日付を決めて手紙を書いてくるんだ。それで二番目の姉と一緒に何度も第一ホテルまで会いに行きました。芳枝は私たちには皿洗いをしてるなんて言ってたけど、さすがにあの格好を見れば何の仕事をしてたかは誰だって分かりますよ」

信義は、さらにこう続ける。
「ただ、どんな仕事にせよあの貧しい時代に芳枝が稼いでくれたから私たちの学賛が出たんだ。その点は本当に感謝してる」

▼大物財界人との交友関係も

実は、沙知代がコロンビア大学に留学していたと主張した53年から57年の期間はちょうど沙知代がこの仕事をしていた時期にあたる。つまり、沙知代はこの仕事の過去を大学留学という嘘で糊塗しようとしたのである。

そして、沙知代の最初の結婚相手、米軍将校アルビン・ジョージ・エンゲルも、実はこの仕事中に新橋のホテルで知り合った客だったというのだ。

「当時、GIと付き含ってるパンパンはたくさんいたけど、結婚までする女は希だったと思うよ」(伊東信義)

もっとも、沙知代にしてみればその日暮らしの生活から自分を別世界に引き上げてくれる絶好のチャンスである。エンゲルと沙知代は57年に入籍。この年に長男のダン(現在、大リーグのスカウトマンとして知られる団野村)が生まれ、59年には次男ケニーが生まれている。

ところが、である。家族に囲まれ、さぞかし幸せな生活だったと思いきや、何と沙知代は結婚後も米兵と遊ぴ、男の家を泊まり歩いていたというのだ。

「実家の土地を売った金で『麻布十番』って名前の喫茶店兼スナックを始めたんだけど、芳枝は店も子供も放ったらかしで、別の男の家に入り浸ってたからね。子供はよく自河の実家に預けてたから、俺がダンやケニーの面倒を見てやってたんだ。エンゲルさんはかわいそうだったね」(伊東信義)

一向に落ち着かない沙知代に業を煮やしたのかどうかは分からないが、エンゲルは64年に店を売り払い、沙知代とアメリカに渡るのだが、わずか4力月で帰国。すぐさま株式会社ディーアンドケイを設立し、エンゲルのコネでボウリング用品の輸入を始めるのだ。

ところが沙知代は事業に関してはまったくのシロウトである。実家の金まで持ち出したのだがディーアンドケイの業績は見る見る悪化していったという。しかも、沙知代はそんな会社を横目に相変わらず男漁りに走っていたというのだ。それも今度の相手は米兵ではなく、仕事先で出会う日本人実業家である。いかに沙知代とはいえ、にわかには信じられない話ではあるが、この会社の元社員はこう証言するのだ。

「野村(沙知代)さんは、仕事で知り合った相手、それも大物の政・財界人ばかりを狙ってアプローチしてましたね。英語はペラペラでしたから、コロンビア大卒業の経歴も通じたようで結構武器になってましたよ。それに、親しくなると女を前面に出して強引に迫ることが多かったようですね」

しかも、もともと夫のコネで始めた会社であるにもかかわらず、沙知代は夫のエンゲルと別居し、ひとりで会社を経営し始めたのだ。沙知代は強烈な上昇志向で次々と人脈を広げていったのである。

「自分のメリットになるような地位や権力を持つ相手を見抜く目はありましたね。実際、目をつけた男には、よくモテていたようです」(前出・元社員)

そして、沙知代は米兵を相手に鍛えた英語カと持ち前の度胸で、あるトンデモない大物財界人と関係を持つことに成功するのだ。

あの国際興業の経営者で希代の政商と呼ばれた故小佐野賢治である。当時、小佐野が経営する国際興業と沙知代のディーアンドケイが、あるポウリング用品の代理店契約をめぐって争うことになったのだが、本来の会社の規模でいえば勝負にならないところを、沙知代は小佐野に直談判し、とうとう契約を奪い取ってしまったという。

この一件で沙知代を気に入った小佐野は、沙知代の会社に当時としては超高級品であるクーラーをプレゼントするほど惚れ込んだという。さらに、沙知代と小佐野は愛人関係だったとの説まである。

沙知代が頭と身体を便って築いた財界人脈は小佐野だけではない。実はもうひとり、別の大物財界人も沙知代と親密な関係にあったといわれているのだ。

「沙知代は裏千家十回世家元・淡々斎宗室の長女で評論家の塩月弥栄子の秘書として働いてたことがあるんだが、実は、塩月に沙知代を紹介したのがある財界人だといわれてるんだ。その人物とは、あの堤清二。沙知代は堤に詩集をプレゼントするなど、かなり親しい間柄だったようだ」(経済誌記者)

なるほど、確かにこの頃の沙知代にはある種の女としての魅力が備わっていたのだろうが、それにしても、金も学歴も持たない文字通り裸一貫から始めて、これほどの大物を籠絡するのだから、沙知代の手繰手管は見事としか言いようがない。

こうして政・財界に食い込んでいった沙知代は、ついに、当時、プロ野球界のスター選手だった野村克也と出会うことになる。

▼野村克也との出会い

ほどなく野村と暮らしはじめた沙知代は、73年に克則を出産するのだが、この時、野村には妻と子供がおり、一方の沙知代も、別居してはいたもののエンゲルとの離婚は成立しておらず、いわゆるダブル不倫の状態だった。

ところが沙知代はそんなことにはお構い無し。夫のエンゲルとの離婚が成立すると、名前を「芳枝」から「沙知代」ヘと改名し、野村の妻の座におさまろうとしたのである。

「沙知代は野村の前の奥さんに何度も電話をかけて嫌がらせをしてたようですね。『克也は絶対帰らせません』なんて宣戦布告までしたようです。後にこの前妻が亡くなった際も、野村が葬式に参列することを許さなかったほどですからね」(スポーツ紙記者)

しかも、沙知代の存在が南海球団内部で問題になり、「女を取るか野球を取るか」と迫られた野村は、沙知代を選んで南海を追放されてしまうのだが、沙知代は一向に悪びれず、逆に記者会見を開き「球団の陰謀だ」と反撃に出ているのだ。

ともかく、この一件により球団を追われはしたものの、野村は前妻との離婚が成立。沙知代はようやく妻の座を手に入れるのである。

まさに欲しいものはカずくで奪い取ってきた沙知代の人生哲学を象徴するような結婚である。もっとも、こうした沙知代の生き方は、至る所でトラブルを引き起こしているのも事実。犯罪スレスレのトラブルを起こしたことも一度や二度ではないのだ。

「浅香が暴露しているように、『この指輸いいわね。ちょっといい?』と持っていったまま品物を返さないという”寸借詐欺”の常習者で、被害者は数え切れないほどいますよ。しかも本人はまったく悪いとは思っておらず、『返してくれ』なんて言おうものなら『ケチ』『貧乏人』とクソミソにケナされるんだからたまりませんよ」(芸能プロ社員)

それだけではない。沙知代は塩月弥栄子の秘書時代には、その立場を利用し、塩月の著書の印税を自分の口座に振り替えさせ、塩月のサインで絵画や骨量品を買い漁るという手ロで、1億円を超える横領までした疑惑もあるのだ。しかも、沙知代は最後まで知らぬ存ぜぬで通し、1円たりとも返さなかったというのだからとてもマトモな神経の持ち主とは思えない。

「芳枝が金に汚いのは昔からのこと。アマンドの社長だった瀧原美和子からも借金をして、返せ、返さないでモメてたこともあったよ。しかも金だけじゃなく、洋服や家具、食事や美容整形の費用すら払わないからねしこう話す沙知代の実弟、伊東信義も現在は遺産の相続をめぐり沙知代と係争中なのてある。とにかく自分に甘く他人に厳しいのが野村沙知代であり、まさにこうした沙知代の性格が現在のバッシングの原因になっているというわけである。いずれにせよ、厳しい時代を女ひとりで生き抜いてきた野村沙知代の強さやしたたかさは、テレピの中ではユニークなキャラクターとして笑いはとれても、常識やルールが必要な現実生活においては、パッシングの対象となるのも無理からぬ話である。今回のバッシングは、調子にのりすぎた沙知代にとっての思わぬ”過去からの復警”だったということかもしれない。〈敬称略〉